初編 学問には目的がある
人権と学問
「天は人の上に人は造らず、人の下に人は造らず」と言われています。
これは天が人を造るときには、みな同じ権理*を持っており、身分の上下などないことを意味しています。
*福澤は「権利」ではなく「権理」の字を当てて使うことが多い。
しかし世界には賢い人と愚かな人、金持ちと貧乏人、社会的地位の高い人と低い人がいます。この大差は何故できるのでしょうか。
それは賢い人と愚かな人、すなわち学ぶか学ばないかの違いです。
生まれたときは貴賤の差はありませんが、学問をして地位の高い仕事をする人は豊かになり、学ばない人は地位の低い貧乏人となるのです。
ここでいう学問とは日常生活で役に立つ実用性のある学問のことです。
すなわち読み、書き、算盤と天秤の使い方に加え、地理学、物理学、歴史学、経済学、修身学(倫理学)のことです。
これらを身分に関係なくみなが身に着けるべきであり、これらの心得があった上で自身の職務を全うすることが大事なのです。
学問をする上で、他人に迷惑をかけるようなわがままと自由をはき違えないことも重要です。
国家
ペリー来訪以降、外国との交流も盛んになりました。未だに鎖国だの攘夷だの言う人はいますが、西洋人も同じ人間なのだから、お互い学び合い、お互いの幸福を祈るべきです。
ただし道理の為ならば米英相手でも戦い、国が辱められたなら日本国中が命を投げ出しても威厳を保とうとするのが、一国が自由独立するということです。
国内においては、明治になり士農工商の身分の違いは撤廃され、平民であっても名字を名乗ることができるようになりました。
その人の地位は出自ではなく、才能や人間性や社会的役割により決まるようになったのです。
また、政府がその威光で国民をおどすような時代は終わりました。
仮に政府に不満があれば抗議の手段を取ってきちんと議論しましょう。天の道理に合っていることであれば命をかけて争う、それが国民のなすべき義務なのです。
また天の道理の元では、国家も個人も何物にも縛られず自由な存在です。
一国の自由を妨げるものがあるなら、世界を敵に回しても戦うべきだし、個人の自由を妨げるものがあるなら政府官僚に対しても遠慮する必要はありません。
とはいえ、行動する前に自身の才能や人間性を知るべきであり、それを知るためには物事の筋道を知るべきです。そして筋道を知るためには文学を学ばなければなりません。
なので現在学問が緊急に必要とされているのです。
ひどい政府は愚かな国民が作る
この世で学のない国民ほど哀れで憎むべきものはありません。知恵がないのが極まると恥を知らなくなります。
自分の学がないゆえに貧乏なのに、金持ちを逆恨みし、集団で乱暴までするやからがいるのです。
こうした愚民には道理で諭しても無理なので、威力で脅すほかありません。
これは政府が厳しいのではなく愚民のせいで厳しくならざるを得ないのです。良い民の上には良い政府があるのです。
今、この国を良くしようと思うのであれば難しく考えることはありません。
道理に基づき正しい行動をし、熱心に勉強し、それぞれの社会的役割にふさわしい知識や人間性を備えることです。
そうすれば政府は政治をしやすくなり、国民は苦しむこともなくなり、お互い責任を果たすことができるます。
私がすすめている学問はひたすらこれを目的としているのです。
- 明治時代は学問のあるなしが貧富に直結する
- 世界と戦うためにも学問は必要
- 愚かな人民の政府は暴力的になる
- 賢い人民の政府は良い政府になる
詳しくは「上級国民/下級国民」の要約を見てね。
第二編 人間の権理とは何か
学問とは何か
学問の目的は、知識教養を広げ、物事の道理をつかみ、人としての使命を知ることです。
そのために文字を読むことは必要ですが、文字を読むだけで学問だと思うのは見当違いです。
文字は学問のための道具の一つにすぎず、実生活も学問、実経済も世の中の流れを察するのも学問です。文字を読んだだけで学問をした気になってはいけません。
ちなみに「学問のすすめ」のタイトルは、字を読むことだけをすすめているのではありません。
人間は平等である
初編冒頭の「天は人の上に~」についてもう少し詳しく見ていきます。
人と人との関係は本来平等ですが、それは現実の在り方が等しいのではなく、権理が平等であるということです。
現実の世界では、貧富強弱、賢愚の差は大きく、全く等しくありません。
しかし人権に関しては軽重の差はなく全く平等なのです。人権とは、命を大事にし、財産を守り、名誉を大切にするということです。
天がこの世に人を造り、人権を持たせたのだから、人間がこれを侵害することは絶対にできません。
貧富強弱は現実の在り方、みな違って当然ですが、金があるからと言って貧乏人へ無理をしようというなら、力の差で他人の権理を侵害していることになります。これは迷惑の極みです。
これは政府と人民にも当てはまります。
政府は法律を作り、悪人を罰し、善人を守るのが商売と言えます。この商売の運営費は町人や百姓からの税収です。
すなわち政府と人民はお互いがこの責任を果たすのならば、どちらも自分の権理を主張することは問題ないはずです。
ところが江戸時代は圧倒的に政府が強い立場で、人民に対して威光を振りかざしていました。
このような悪習が起こった由来は、人間が平等な人権を持っていることを認識せず、現実の在り方に沿って強い政府が弱い人民の権理を侵害してきたことにあります。
この世で最も大切なことは、人が平等な権利を持っていることを忘れないことです。
しかし世の中には法を知らず守らず、食って寝るだけの愚か者もいます。初編で述べた通り、このような愚者は道理が通じないので威力で脅して治めるしかありません。
暴力的な政治を避けたいのであれば、国民は学問に志し、自分の才能や人間性を磨いて、政府と同等の立ち位置まで登らなければなりません。
- 本は読むだけじゃダメ、実践しましょう
- 平等なのは現実の在り方ではなく人権
- 人権は天が与えたもの、人間風情が侵害していいわけがない
- 道理が通用しないバカには暴力的な政府ができあがる
第三編 愛国心の有り方
国同士も平等である
第二編で伝えたとおり人間は人民、政府、貧富強弱に関わらず権理は平等です。この考えを国と国との関係にも広げてみましょう。
どこの国に生きる人であっても人の権理は平等であり、一人の人が一人の人に危害を加えるのに道理がないのであれば、それが百万人対百万人になっても同様です。
このように物事の道理は人数の多少で変えてはならないのです。
欧米諸国は強く、アジアやアフリカ諸国は弱いというのは現実の在り方です。
ここで強い国が弱い国に対して無理を加えるのであれば、力の差で他国の権理を侵害しようとしていることになり、許されることではありません。
我が国においても道理に背いた行為を他国からされた場合には、世界中を敵に回しても恐れることはありません。
また貧富強弱は国であっても時代で変化します。日本国民も学問に志し、一身独立して一国を強くすれば、西洋人の力など恐るるに足りません。
道理がある相手とは交際し、道理がない相手は打ち払う。一身独立して一国独立する、とはそういうことなのです。
愛国心とは
国と国とが対等であるといっても、国民に独理の気概がなければ、国が独立する権利を十分に展開できません。
その理由は次の3つです。
その1 独立の気概がない人間は、国を思う気持ちも浅い
独立とは、自分の身を自分で支配して、他人に依存する心がないことを言います。
論語では民に道理など教える必要はなく、ただ従わせればいいと言っていましたがこれは大きな間違いです。
独立せずにただ従うだけの民はいわば国に対して「客」の気概であり、いざというときに命をかけて国を守るようなことはしません。
外国に対して我が国を守るためには、国民すべてが財産だけでなく命さえも投げ出してでも国を守る責任を果たす必要があります。これが「報国の大義」です。
この国で寝食を自由にする権理がある以上、義務がなければならないのです。
その2 国内で独立した立場を持っていない人間は、国外に向かって外国人に接するときも、独立の権理を主張することができない
独立の気概がない者は人に頼り、その人を恐れ、その人に媚びへつらうようになります。
常に人にへつらう者は、それに慣れてしまい、恥ずべきことを恥じず、論ずべきことを論じず、人を見れば卑屈になるばかりです。
そのような人間が外国人を相手に対等に論じることができるでしょうか?。
国内で独立できない卑屈な人間が、外国人相手に独立を主張などできるわけもありません。
その3 独立の気概がないものは、人の権威をかさに着て悪事をなすことがある
旧幕府時代には御三家などの勝手に名目を借りて、無理にお金を貸す人たちがいました。
自分が貸した金が返ってこないなら本来は政府に訴えるべきなのに、政府を恐れて訴えもせず、他人の権威で返金を迫るのです。
現在ではこのような話を聞くことはありませんが、外国人の名目を用いて同じようなことをしている者がいるかもしれません。
以上が独立心がないことで起こる3つのことです。
愛国心があるのならば、自身の独立を目指し、余力があれば他人の独立を手伝いましょう。
要は、国民を支配して政府が一人で苦しむのではなく、国民を解放して苦楽を共にしようではないかということです。
- 国と国との場合でも人と人との場合と考え方は同じ
- 国でも現実の在り方は違えど権理は同じ
- 独立心がない国民は国を守らない
- 国民は学問をして独立して国を守りましょう